ブログのさじ加減は投資よりも難しい

水瀬ケンイチ

投資ブログを書いて4年目になりますが、ブログ記事・コメントのさじ加減は投資よりもはるかに難しいと感じています。

自分の考えを強く書くと、びっくりするような攻撃コメント(メール)が来ることがあります。
(特定の個人を示しているわけではありません。あくまで3年間の傾向の話です)
僕は自分のブログで自分の考えを書いているだけで、別にその人たちに意見を押し付けているわけではないのですが、受け取るほうはそうは感じないことがあるようです。

世の中には必ず自分と違う意見の人たちがいるものです。
そもそも投資手法に唯一無二の正解などないのですから、お互いの考えの違いを認め合いながら建設的な意見交換ができるといいのですが、いきおい、キツい攻撃の応酬(あるいは陰湿な陰口)になりがちです。

かといって、自分の考えをぐっと抑えて、「勉強になります」とか「そういう方法もアリですよね」とばかりやっていると、今度は「自分の意見がない」とか「マトモに取り合わないのは失礼だ」などと批判コメント(メール)が来ることがあります。
(しつこいようですが、特定の個人を示しているわけではありません。あくまで3年間の傾向の話です)

当方、経済評論家でも学者でもないいち般個人投資家に過ぎないので、誰もが賞賛するような記事など書けませんし、そうそう鮮やかなコメント対応ばかりできるものではありません。

いったいどうすればいいのだろう…?

アタマが混乱してキーを打つ手が止まることもしばしばです。
そういう時は、「ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか」(梅田望夫著)の一文を読み返します。

「フューチャリスト宣言」で茂木健一郎は、「史上、名をなした文化人って、今から見るとはっきり定まった姿をしているように見えるんだけど、同時代的に見ると、大変な毀誉褒貶のなかにいたわけですよね。そのような波乱の中で闘うことで、人間として成長した。いまはごく普通の人でも、ネットというものを使うと、昔なら一部の公人にしか与えられなかった試練にさらされ、成長することができる」と語った。
まさに自らの「知的生産の成果」によって毀誉褒貶という激しい反応を受けた文化人たちは、その波乱を成長に結びつけ、次なる知的生産に活かした。
ブログを書き「不特定多数無限大」と向き合うことでときどき味わう苦しさは、知的生産においてきわめて重要なプロセスなのである。


こんなブログが知的生産かどうかは甚だ疑問ですが、もしかしたら、昔の文化人の特権的苦しみを、ネットのおかげで、いま体験してしまっているのかもしれません。
これはこれで、すごいことじゃないですか。(←無理やりポジティブ思考)

結局は、自分が書きたいと思ったことを率直に書き、受けた批判については次の記事に少しでも活かしていくしかないという、至極当たり前の結論に落ち着きます。
そしてこう思うことにしています。


ブログのさじ加減は投資よりもはるかに難しい。
でもその分、自分が成長できる。(かもしれない)



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Posted by水瀬ケンイチ